陰摩羅鬼の瑕

その本は本棚の奥にきちんと並べられていた。しかし私が再度認識するまで私の世界には存在していなかった。塗仏の宴を読み終えてから、百期夜行−陰、百器徒然袋−雨、今昔続百鬼−雲と読み終えて、本棚を見渡すとやはりあったのだ。表紙にも見覚えがあった。

私は私の記憶の連続を私の人格が成立している根本的な根拠と思っていたが、それは甚だいい加減なものだと思う。濃淡の差が激し過ぎてとても連続しているとは思えない。実際記憶することが苦手な私は様々な記憶を失っているのではないかと自分を疑うばかりだ。そして疑うまでもなくそれは当たっているのだろうが、確かめることは難しい。

今私が思い出せない記憶は大きく二つに分けられる。この先何かを契機に喚起されるものとそうでないものだ。時期が早ければ前者、遅ければ後者になるものもあるだろう。喚起するものは自分のメモだったり、本の表紙だったりする。

記憶と記録は違う。記憶は個人的な情報であるのに対し、記録はプロトコルさえ分かれば再生が可能だ。しかし私が認識するには、記録は認識できないほどに小さな記憶としてバッファに細かく貯められてから再生されていると思う。

コンピュータなら直接記録を記憶として扱うことができるだろうか?否、記憶をメモリ上あるいはHD上のデータだとすると、メディアから読むまでに幾つもの解釈を経て変換されるのだ。その変換が人間のそれより遥かにばらつきが少ないというだけだ。仕組みは変わらない。コンピュータは人間の思考を不器用なりに真似る機械なのだから当たり前だ。

しかし、コンピュータの記憶に濃淡の差などない。少なくても今の機械には。仮にあったとしても、今は思い出せないけど将来それを思い出すかもしれない記憶、などというものはないと思う。どこかに残っているけれどもそれがどこなのか全く意識できないが、契機さえあれば枯れた桜が再び花開くように連鎖的に明瞭になっていく、そんな仕組みはない。


本当にそうだろうか?おそらく違和感を感じるのは記憶のモデルが間違っているからだ。思い出せないことと忘れることは完全に同義ではないのだ。そう考えたほうがしっくりくる。

思い出せないからと言って、オブジェクトへの参照が全てなくなっているとは限らないではないか。全く別のものとしてグルーピングされて、契機によって分類を修正して再認識されるということだってあるだろう。検索の優先順位が低すぎてその他大勢に埋もれてしまい意識されなかった、ということもあるかもしれない。

思考の仕組みは良く分からないのだ。それを適当に都合のいいモデルを作って、うまく説明できたとしても、真実そうなのかは分からない。

ただシステム屋にとっては真実を突き止めることは仕事ではない。顧客や自分達が納得ができる都合の良いモデルを作ってシステムとして動くようにすることが仕事だ。プログラム−式神を使役して顧客の要望に応える。もしかしたら中世の陰陽師も同じようなものだったのかもしれない。そう思うとあの黒衣の男が少しだけ羨ましくなった。